昭和49年08月18日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年・五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
信心を見易うするがよいと。又は信心は見易いものじゃがと、後にも先にもそう言うておられます。信心は見やすいものと。それみて最後にもみやすう信心をするがよいぞと。今の合楽のまあ信心こそ見易い信心じゃなかろうかと思うのですね。言うならば、もう、言うならば他力本願。ね、神様がもうおかげを下さる。いわゆる神様が先に立って道を開いてくださる。そんないわば感じのおかげを今頂いております。
二十いわば五年間というのは、何とはなしに本当にまあ自力。ね、自力の本当にまあおかげが受けられんのは、ね、それはまだ信心が足りんのだと言う所を自分の心の上に持ってくると言う事よりもその形の上で、ね、断食をしたり水を被ったり。そして神様に言うならじだんだを踏むようにして、そのお願いをした。合楽の場合は決してそうばっかりではございませんでしたね。
もう特に私は心情の事を申しますから、所謂成り行きを大切にすると言った様な事がだいたい中心になっておりますけれども、まあ大体にしてまあ申しますとです、そういう感じの信心がまだ残ってた二十五年間の間。だからそれははあ私はもうあげな事は出来ん。十日も十五日もご飯を頂かんてん何てん、それはとても私なあげな事せにゃんなら、合楽には参りきらんと言う様な人達もやっぱあった。それはもう毎日毎日お水を掛る。好きな物を断ってまあ酒好きな人は、酒をいわばもう飲まんとか。ね。
ああせんこうせんと言った様な、言うなら頑丈的なものは、これは何と言うても難しい。やはり難しゅう見えるのだと。所が最近はそう言う事を一切、もう合楽ではそう言う事をする人は出来なくなった。ね。何となしにまだ未練があるけれども、荒行に対して。言うなら確かにその、それは荒行してみなければ分からんですけれども。断食でもさせて頂いてまして、4、5日目ぐらいからあの気分の良いと言う事が、もうそれは素晴らしいですもんね。もう頭はもう冴えきって来るしね。
心はずうっと言うなら神様に向けて、向け通し向けておりますしね。もうそれは何とも言えんです確かに。なら毎朝お水を頂いてですね、御神前に出ると、それは有り難い御祈念が出けるです。ならそういう人はなら体の今度は汚れておる時に良い御祈念が出けないと言う様な事じゃいけないでしょう。ならいつも断食しとるように頭が透徹でいつも心が神様に向かうておる。もう断食しとらなければそうでよりでなからなきゃいけないと言った様な事は、もう言うならば合楽園じゃ流行らんと言う事になった。
確かにそれは荒行のその功徳ていうものがあるです。けれどもねそう言う様な事を、もう振り捨てて。ね、言うなら親鸞聖人様じゃないけれども、そういう雑業を振り捨てて他力本願になっと。まあ金光様の御信心は、いわゆる見やすう信心をするがよいと言う事は、そういう風な事だとこう思うんです。今日わたし御神前に出らせて頂きましたら、あの、おもちゃのロボット人形がありますね。こうネジをかけるとこうやって歩いて行くそのロボットなんですそれを頂くんですね。
だからそのこれはまあどういう風な意味かと言うと、言うなら尻を叩かれなければ、ね、信心が出来ん。言うなら今難儀を感じておる人は、そのいわゆる難儀に尻叩かれておるから朝参りでも一生懸命出来るけれども。本当におかげを頂いて楽になるとです、言うならば朝参りも出来んようになって来る。こういうもしこうこれであるとするならば、言うならばネジをかけられてから、ぎこちなくこうやって動きよるもんだと。ね。ですから実を言うたらそういう難儀じゃない。
もう有り難い有り難いのお礼の信心が、朝参りでも出けるという時に、これもう本当の、言うならばロボット的な、言うならネジかけてからの信心じゃなくて、本当の意味においての、有り難い信心。だからそういう信心を目指させて貰う。だからそういう信心を私は見やすい信心だと思うです本当は。ね、もう心配で心配でたまらん。苦しゅうて答えん。だから朝参りでもしとるというのは、これは私は難しい信心だと思うです。けれどもおかげを受けて有り難い、勿体ないがです。ね。
お礼参拝させてもらわにゃおられないと言う様な信心。今合楽ではそういう信心を願い、そういう信心をお互い身につけて行こうと言っておる訳なんです。ね、そこにはもうおかげは限りなく頂けれるというだけではなくてそういう信心こそが、徳になるのです。御理解を頂くあの一時の有り難さ。一緒にあの大祓いをさせてもろうて、一生懸命一心不乱に御祈念させて頂く時の有り難さ。それを思うただけでもパチッと目が覚めると言う位な。信心じゃなからなきゃそれなら見やすいでしょ。
楽しいのですから有り難いのですから。苦しいから参るのがいわゆる難しいのです。だからここを見やすうする為にです、私共がどうでもそこの一線上に出らなければいけない。今合楽で言われておる、いわゆる自覚と言う事です。ね、所がその極楽のおかげを頂いておる人ほど、お参りが出けないです。不思議な事ですよね。だから人間はね本当にいわば修行時代、苦労時代があって、その時に有り難い信心が身についてしまうおかげば頂いておかなければいけないと言う事が分かります。
例えばなら私が。ね、もう荒行はいけませんよ言うならば心行。そしたら今度はスパーッとあんまり見やすい方へ走って行くような感じがしますね。もう合楽の信心は他力本願だから。もう見やすうね。これはこれまたあまりの信心だと思うですね。私先日ここの修行生の方達に申しました。言うなら他力本願とか、言うなら荒行をせんと言う様な信心にならせて頂いたんだから。ね、せめて朝の御祈念ぐらい居眠りの出らんような信心をしなさいて私が。ね。
信心に言うならば、一時と二時の御祈念、夜の御祈念にぐらいはキチッとそれこそ、ね、節度を守った信心をさせて貰いなさいて。何しろアンタだんそれにかかっとるとじゃろうもんち。ね、荒行をせんでいいごつなった、御祈念にも出て来んでよか。そげな事っじゃなかて。ただその代わりには、んならもう一時なら一時の御祈念にはピシッと。合楽の修行生は、が御祈念に出て来て。ね、御祈念にはちゃんと意義、言うならば奉仕着に着替えて御祈念に出て来ると。
そげなこつまでだらしがない、無くなるという意味じゃないよて私が。ね。言うならば、見やすう信心するがよいと言うて、そげな事ではおかげにならんぞと。てんで御結界で眠るはためきする。そげな事っじゃ出けんて私が。だからそれを一つ修行とさせてもろうて。ただアンタどんが断食をしたり、水をかぶったりと言う事を出けん、しちゃいけんというのであって。いわば神習、神様を神習わせてもらうという信心はね、本気で例えば今まで居眠り半分の御祈念じゃった。
しか出けなかったならおかげでね、御神前に出た途端に目が覚めるくらいな、どげんしたならそげなおかげが頂けるじゃろうかという風にせにゃこて。アンタどんな修行しとったっちゃ意味がなかじゃないのと言うて申しました。だからそういう似たりよったりです。楽に楽なとはあ合楽の信心も、もう他力本願で楽になった。最近の合楽ではね。確かに一心を立てなければおかげは頂けんという人に対して、もう一心を立てんでもおかげが受けられるという時代です。おかげは。ね。
言うなら修行せんでも、願うという気がありさえすりゃです。ね、教えを頂いて改まなければおかげを受けられんという、もう時代じゃないです。それはなしかと言うと、言うならば奇跡ですね、おかげです。はあ信心もせんとにこげなおかげ頂いて良かろうかちゅうごたるおかげを頂くと言う事によってです、神様を認めさせよう。分からせようという働きがいっぱいだからなんです。今度のあの夏期信行のじゃない、あの昨日一昨日の祈願祭にはです、もう沢山ないわば奇跡が現れておる事を私が思うです。
一昨日その日と、例えば昨日頂いただけでも、いくらもありましたです。胃ガンの疑いで、流動食しか頂けない。食もう全然食欲もないという人が、あの御直会のパンを頂いて、おかげであのパンも二つ食べた、コーラも一本飲んだ。それから帰って夕食も頂いた。今朝は朝ご飯を普通に頂いたっちゅう人があるですよ、初めて参って来てから。ね、星野のほんの山の中から、初めてその親戚から、やあやあ電話するけんでお参りしようと思うて出た途端にですね。
そのどこの車か分からんばってん、何処に行きなさりよるのっち。今から私は久留米先の合楽ちゅう所まで、行った事もなかばってん、そんなら私が合楽まで行って乗せて行こうち言うちから乗せて下さったて。ね。それこそ高柴さん方の孫達は前の晩。夜中に電話掛かって来るぐらいじゃけん、四十二度も熱があった。で私が昨日言いました。あの親子4人でおかげ頂きましたから、それはその体温計が狂うちゃおったじゃなかのち。いやそげな事っじゃありません。
もう絶対もうそれはもう焦がれるごたる、四十二度もあった。さあ明日は祈願祭ちゅう時にどうするかとこう。それでもやっぱ熱は下がらん一人の娘は三九度から熱がある。それをならお父さんとお母さんが、もうとにかく寝ないで夕べはそのお話を聞いた。アンタどんば育てる時にはお父さんなこげな事もあったこげな事もあった。それこそ医者にでも掛からにゃおられんごたる時でも、いわば親先生が掛からんで良かよと言われりゃ、もう本当におかげを頂いて来てアンタだん育っとるて。
だからこげん時にさあ薬の医者のと言うて慌てちゃ出けんて。ここが信心の稽古と言うて、まあおかげを頂いて、朝は下がるやろうと思うても下がらなかった。そこで愈々お参りの時間になったからね。さあここが神様のお試しばい。ここが力ば頂く時ばい。子供を二人ながら、その抱いてお参りをせろと言うた。まあ信心にも度胸がいりますね。四十二度もある子供を連れて参って来た。もうここへ着く途端じゃった、熱が引いたのは。吐いたり下したり、もうそれっきりじゃった。
そしてもうここで兄弟で一生懸命遊んどる。だから返って悪うなるじゃろうかと思うたら、帰ってからそのままおかげを頂いとる。ね。だからそう例えばです。今の信心も例えば、ならおじちゃん、おばちゃんの信心が出けとるから。ね、おかげ頂いたばってん、他の私がまだいくらもありましたけれどもね。昨日八幡から参って来とった一人が、昨日夕方参って来ました、親子五人で。けどアンタ昨日はあのお参り出けなかったのかと言うたら、いいえ昨日お参りさせて頂いて。ね。
それはもうちょっと、言葉に出して言えん事ですけども。こうこうこう言う事がね、おかげ頂いたから、今日またお礼参拝して来たと言うて、今日お礼参拝して来ましたよ。奈良からまだあれだけ沢山の人が、本当におかげをまだこうお届けせんなり頂いておる人がいくらもあるはずです。と言う様にです今の合楽の信心はね、そう言う事になって来てるです。今までもう無理いわんで有り難くなかったばってん、あの昨日を境に有り難くなったという人がいくらもあるです。
昨日じゃない一昨日のお祭りを境に。佐田さん所の、お里のお母さんなんかは、私もそれを感じるです。今日だけはと無理言われてから参って来なさる。ばってんそれっこそお話でん何でん、ほけぇんごとして、それこそコンクリーの上に水撒くごたる感じですよ。昨日はお友達、いわゆる遊び友達の言うならグループがある。それをお盆の16日やけん、どっか行くごとしとりなさった遊びに。そればってんあんまり恵美子がそのしゃっち参らんごと言うけん、もうその断って参って来たっちゆうて。
帰りがけには恵美子さん捕まえて、もう本当に今日のもう大祭のごと有り難い事なかったち。もうどうしてあの6人の友達ば連れちこじゃったじゃろうかと思うて、もうもうそれこそ涙を流して、おかげ頂いて有り難かったち言いなさった。あの暑い中で御理解を皆さん頂いてね。あたし今度あの暑い中に扇子を使う人がありませんでしたよね、私が一時間二十分お話をしとる間に。もう言うならば感激の仏語になってしまってるから、もうそれは病気ならそこで癒えるはずですもん。ね。
信心は出けんでもです。ね、あのとにかくおかげを頂けれる、言うならば神様の方が先回りしておかげを下さる。そこは神様が神様を認めてもらいたい、信じてもらいたいと言う様なです、働きがあってるからです。私は最近口を開けばです。ね、合楽言うなら示現活動に参画しようと。ほんに参画しようっちゃ何人もの人から昨日ね、もう親先生は参画、参画を間違えとりなさるとじゃないですか、ち言う人がありました。夕べも合楽会でしたが、田中さんが、あの親先生参画っちゃどげな意味ですかち。
まず三角四角のごと思うちゃるごたる風じゃん。そげな事っじゃなかばいあれは参加ちゅう事よりか意味が違うち。参画と言う事は私はまあ字引を引いて、良うと詳しい事は分からんばってん。あれはね親先生が言うておる事に、その気になってもう実際に行動に移すと言う事なんだと。言うなら合楽示現活動運動にです、もう参画すると言う事は、もう自分はその運動員になって、もう活動を始めると言う事なんです。ね。けれどもです参画しないでしょう。
言うなら合楽でもこの人はて言われるような人達が参画しないから、私は驚いておるです。例えば私がこれを、こんなに一生懸命言うておる事をです。それにその気になってそれこそ、まあぎこちなくまあネジをかけられたから動きよるぐらいな事じゃあるけれどもです。それこそ親戚にも十枚もハガキを出した電話を掛けたり、参って来て下さいと言う様な人達の、言うならこの運動に参画しておる人達の家には、皆親戚がですね5人、10人、それをもう十何人も親戚、重雄さんとこ辺りのはお参りして来とるです。ね。ただ自分が一人お参りすりゃ、もうそげな時代じゃないです、合楽は。
私はそう言う様な。したら昨日はある本ば読みよったらね、これはあの大元教の教祖。この方は、元金光様の御信者さんじゃった、おばあさん。それが霊感に触れて、あの大本教の元を作った人なんです。出口三郎さんの言うならお母さんに当たる方。そこの教えは全部あのお筆先と言う事になってるんですね。字を書っきしらんけん、筆ば持って神様が動いて書いて下さる。それが全部その大本教のあれになった。それをねもう私の思いと同じような事が書いちゃったから。
少し向こうのその教祖という方教祖と言うですかね。そのおばあさんの書かれた、あのちょっと意味が分からんごたっとこのあるけれども、少し直しましたけれどこう言う事がその本に書いちゃりました。神は助けようと思うて繰り返し話してやっても、何時も鳴く鳥の声と油断していると。ね。とちめんぼう振って逆さになってお詫びせんならん時が来る。その時になっては遅すぎる。身から出たサビと諦めて往生いたそうより、使用がないと言うておられます。
言うならば教祖様が、ね、金光教の教祖様が、ね、開けた開けたと言うけれども、ね、世の中が開けたのじゃないめげて行くのぞと仰る。そのめげて来る事が必ず来るんだと言ってる訳です。だから私がこんなに言いよる事をです、それこそこんならいいじゃないですか。何時も鳴く鳥の声と油断してと。また先生がさえずり出した。また先生が同じ事ば言いござると、いうとと同じ事ですたい。ね、鳥のさえずりのぐらいしか聞いとらん。ね、そうしよるとですね。
あのそれこそとちめんぼう振ってと言うておられる。とちめんぼう振って逆さになってお詫びせんならん時が来る。その時になっては遅過ぎる。もう身から出たサビであるから。ね、諦めて往生いたそうより使用がないち。そういう時代が来るて必ず。もうそれも危機をはらんじるて、今の時代は。ね、だから本当に魂を清めるという事に、言うならばね、極楽にただ往生しておるだけではなくて、極楽のまいちょ向こうの、ね、いわば合楽という所に着かせて頂く。
神も喜ぶ氏子も立ち行く道の顕現に精進させてもらう、参画させてもらうという生き方にならせて頂かなければです、ね、いけないぞと繰り返し最近は私が、もう本当にその事を話し出すと、もうやはりこう熱が出て来るです。けれどもそれこそ鳥の鳴き声ごとしか聞いておらん人が沢山あると言う事。残念です荒行なんかは許されない時代である合楽では。ね、そんならそれに代わった信心をです。なら私が修行生の方達に申しましたように。言うならばキチッとした信心。
節度のある信心ね、ここで修行生として修行のおかげを頂いとってからね、御祈念にも出て来んごたる事であって良かろうはずがないじゃないかね、だからそういう信心を、修行生だけじゃない、いわゆるキチッとした節度のある信心を本気でさせて頂くという事と同時に。今の合楽の信心を一口で言うなら、そういう荒行はせんけれども、神様がお互いに、銘々に求めて下さるところの修行は、本気で徹底してやろうじゃないかと。この一番始めの、この時に申しましたです皆さんに。
それが、はたして皆さん出来よるですか。荒行も止めたそげんとも、ほけんごつしてまた失敗したちゅうごたる事ありよりゃせんですか。ね。そういう荒行的な信心はおかげで、もう卒業させて頂いて。言うならばです神様が本当に彼に彼女に求めたもう。ね、その求めたもう修行を、一つ水も漏らさんごたる心持で修行して行こうじゃないかと。言うなら、成り行きの中に起きて来る様々な問題をです、本気で受けきって行く修行にならなければならんというのがです。ね。今の合楽の信心であります。
ですから本気と言うたらです、荒行よりも難しゅうなっとるはずです、本当言うたら。ね、難しいと言うがです、例えばここでは難しくせんでも仰るが。例えばそういう信心はです、それを身につけて行けば見やすう出ける事になるのです。ね、運転免許運転しきらない、例えば私共のように自動車運転もしきらんままにです。ね、運転せろと言う事は大変難しいこと。けれどももう合楽ではです、皆が運転免許を頂いてるんです。言うなら皆極楽にあると言う事は。
だからもう見やすう運転出来なきゃならんはずです。ね、自動車運転っちゃそげん難しいもんじゃなかですが、見やすかですばいち、自動車の運転出来る人は言うでしょうもん。そりゃちょいと自動車の運転のごと難しかもんはなか、もう私だん持っとるばってん、そうにもう汗ブルブルでしよるちゅうごたる人はなかでしょうもん。ね。そりゃきやぁすうそりゃもう運転技術を覚えてしもうたから。信心はこういうもんだと言う事を、皆さんはもう覚えてしもうたという一線上に出てしまってるんです、皆。
だから合楽ではもう昔から言われておった、成り行きを大切にすると言う事を徹底、荒行に変わってこれを愈々心行。これを神様の求めて下さる行としてです、これを頂き抜いて行こうと言う事なんです。ね、そこに言うならばです。ね、自然に溶け込んで行くようなおかげを頂くから、天地がその人だけの為に自由になって下さるほどしのです、言うならば何とも言えん自然の成り行きの中におかげが受けられるというおかげを受けて行く。そこにそこに至った時に。
成程信心は見やすいものじゃと言う事と同時にです。そう言う事になって来る時にです。喜んで和賀心が奉れれる、もう我ながら有り難うして、嬉しゅうして自分の心に合掌したような心は、そういう信心からしか生まれて来ない。ね、だから過去の信心と今の信心をです、ね、取り違える事はもちろんいけませんけれども、見やすうなったからと言うてです節度もない。言うならば成り行きを大切にすると言った様な事もおろそかにすると言った様な事では、もう愈々だから信心が。
もうこれはもう堕落の一方を辿りよる他ないです。だから大変いわば今の合楽の信心は、言うならば難しい事に、その辺の所が身についてしまうまでは。人間は今も申しますように。合楽で極楽のおかげを、ほんにあそこの極楽じゃろうと。商売もあれはえらい繁昌しよりござる。ね、病気のない家族も円満に行きよるというほどしの人達がです。見てみなさい皆さんの周囲に。それこそ月次祭がやっとかっとちゅうごたる人がいくらもおるでしょうが。それこそ月に月参りの一偏すらも出来ん。おかげは頂く。
一月一偏に参って来るけん、そうにお礼だけはばさらかです。だからそげんお礼ば言うごたるおかげば頂きよるならば、どうしてお礼参拝ば毎日出来るくらいなおかげを頂かんかち。でなかったらお徳にはならん、合楽にはならんて、それだけでは。合楽のいわば極楽に座っとるだけじゃおかげにゃならん。ね。そげな人達に例えばいくら言うて聞かせてもです、それはまた先生からお叱りを頂いたちゅうぐらいな事でです。それこそ鳥の鳴き声ぐらいにしか聞いとらんね。
もうそう言う事になったらね、信心が堕落するより他ないですね、だから本当にお互いが、信心が見やすうなる所までをです、一つ本気でね、本当に信心は見やすいものじゃがと言えれる所まで、信心を一つ極めて行って貰いたいと思います。ね。確かに今の合楽には、そういう例えば信心はせんでもです。ね、神様が所謂今度の大祭に現れていくらもの奇跡のようにです。ね。
言うならば神が道を開くと言う様な時代ですから、おかげは受けられますけれども、そういうおかげをいくら頂いても。合楽にはなりません一つ本気で、ね、合楽示現活動にいわば参画させて頂く気持ちで。そして今私が申しました信心が見やすうなる所まで、信心を極めてまいりましたら、愈々お徳にお徳の花が咲くような、またお徳の実りがあるようなおかげになって来る事を私は確信しております。
どうぞ。